ペテロ第一1章

1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、

 ペテロは、この手紙を現在小アジアと言われるアナトリア半島の地域にいる人々に送りました。彼らは、散って寄留していると記されていますが、次の聖句から、彼らは、異邦人であることが分かります。

ペテロ第一

2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

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 以前神の民でなかったことは、異邦人であるのです。「あわれみ」は、契約に対する忠誠を表し、契約による祝福から除外されていたのです。これは、異邦人のことです。

 異邦人の信者に対して、彼らが選ばれた民であることをよく分からせるためにこのような記述となっています。そして、神を信じていない人のことを「異邦人」と呼び、信者が神の民であることを強調しています。「散って→離散者:形容詞。名詞化している。」というこの表現も、もともとその地方にいた異邦人に対して、散らされた神の民として表現しています。次の聖句では、エルサレムをバビロンと呼び、キリストを信じた者こそ、神の民であることを表現しています。

ペテロ第一

5:13 あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会と、私の子マルコが、あなたがたによろしくと言っています。

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1:2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

 選ばれたことは、父なる神の予知すなわち前持っての決定によります。そして、御霊による聖別を受けました。これは、御霊を受け、御霊に従って生きることで聖別されることです。イエス・キリストに従うようにされました。血の注ぎかけを受けることは、神の言葉に従うという契約に入ったことを表しています。

出エジプト

24:5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。

24:6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。

24:7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」

24:8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。 」

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 血が注がれたことは、この記事に基づきます。それは、彼ら自身が契約を結んだことを表しています。

 ここには、父と聖霊と子の三者の働きにより恵みに与るものとされていることを示しました。

 その彼らに対して、恵みと「平安→完全さ」が豊かにあるように祈りました。彼らは、それを受けるように選ばれているのですから、それが豊かに与えられるように祈ったのです。恵みは、神の好意によって備えられた祝福です。信仰により獲得できます。そして、その祝福は、彼らが終わりの日に現される救いすなわち永遠の報いを資産として受け継ぐことであるのです。それを豊かに獲得するためには、神の御心を完全に行うことが必要です。それで、それが豊かにあるように祈りました。なお、心に平安があったとしても、その祝福を獲得することにはなりません。

・「予知」→予知。前もっての決定。

・「平安」→神の御心を行うことによってもたらされる完全さ。

1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

 この手紙は、信者を励ますために記されています。その初めに記したことは、神への賛美です。信者に与えられている祝福を覚えて、そのことの故に賛美しています。このように記すことで、信者に与えられている祝福を覚えさせるとともに、それが神の栄光のために備えられていることを示しました。ですから、神が徹底的に豊かな祝福を与えることがわかるのです。それが大いなるものであればあるほど、神の栄光の豊かさが現れるからです。

 神がそのような祝福を与えるのは、契約に対する神の忠誠(エレオス)によります。「大きな」と形容されていて、エリオスが既に忠誠の意味を含んでいますが、それをさらに強調しています。徹底的に果たすことを表しています。

 その契約は、私たちが生きる望みのために新しく生まれさせたことです。すなわち、神の前に生きる者としたのです。神の御心を行い、実を結ぶ歩みに至らしめたのです。それは、望みでもあります。そのような歩みの結果は、次節に記されいる永遠の資産を受け継ぐことになるからです。

・「あわれみ」→神の契約への忠誠。

・「生ける望み」→望み:名詞、対格。生ける:動詞、生きる。現在、分詞、対格。「望み」と「生きること」は、同列に置かれている。「生きること」が「望み」を修飾しているわけではない。

1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。

 さらに、資産を受け継ぐため、神様が新しく生まれさせたことが記されています。新しく生まれさせたことは、肉に対して死に、新しく生まれた者として御霊によって生きることです。その資産は、朽ちることも、汚れることも、消えていくこともありません。それは、天に蓄えられています。

1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。

 さらに、神の強力な守りがあります。その守りは、信仰を通して働きます。この守りは、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくための守りです。救いは、キリストの裁きの座で良いことを評価されて報いをいただくことを指しています。この守りは、そのための守りです。私たちが神の御心を行うことが全うされるための守りです。神の御心を行うことだけが良いこととして評価されるからです。肉の働きは、一切良いものとしては評価されません。私たちが、神様のその働きを信じるならば、強力な力で働かれるのです。以下の聖句が参考になります。

エペソ

3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、

3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

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 信者が、神の完全さに満たされることができることが示されています。それは、神の力により、御霊の働きによります。そして、信仰により内に住まわれるキリストの働きによります。

・「満ち溢れる豊かさ」→満ち満ちている、あるいは完全であるという状態を表すのに使われる。時間の充満、神の充満、キリストの充満など、何かの全体性や完全性を指すことが多い。この用語は、何かが意図された目的や能力を発揮することを意味する。

・「守られて」→警備。軍事的に警備する意味で使われる。

1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、

 御国において資産を受け継ぐことができるので大いに喜んでいるのです。ただ、今しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないのです。悲しまなければ「ならない」と記され、これは必要であるという意味で、悲しみがあることは避けられません。

1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

 しかし、その彼らが受けている信仰の試練は、金の価値よりも高価です。試練の価値が遥かに高いことを示しています。その試練は、キリストが現れるとき、称賛と光栄と栄誉をもたらします。それは、永遠の世界での神の評価であり、これにまさるものはありません。それは、永遠のもので朽ちることがありません。ここでは、試練が非常に価値があることが説明されているのです。なお、それには信仰が関係していますが、信仰の価値について説明しているのではありません。

 試練と対比される金は、火で精錬されてもなお朽ちていきます。この「精錬されて:動詞」という語は、「試練:名詞」という語と同じ語根です。

・「試練で試されたあなたがたの信仰」→あなたがたの信仰の試練。試練が主格。信仰は、属格で試練を修飾している。

1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

→「言葉に尽くせない喜びで喜び踊り、また栄光に満たされていることを喜び踊っています。」

 栄光に満たされることは、既に過去に起こり、今も継続していることを表しています。その栄光は、キリストの現れの時に受けますが、信仰による歩みが既になされてきたので、その栄光を受けることは保障されているからです。

 それで、試練による悲しみを味わうことがあるにしても、喜びに踊っています。それは、言葉に尽くせない大きなものです。

 それをもたらすのは、イエス・キリストを愛しているからです。キリストを愛するとは、その愛にとどまり、その言葉にとどまることです。そして、その方を信じ続けているからです。これは、過去にキリストを救い主と信じたことだけでなく、現在信じ続けていることを表しています。イエス・キリストが内に住んでくださり、御心を行われると信じているのです。これは、肉にはよらず御霊による働きです。それを信じているのです。

・「信じており」→現在、分詞、能動態。

・「踊る」→喜び踊ること。動詞、現在、直接、中態。続く、与格によって、その起源を示している。以下の二語が与格として続いている。両者は、接続詞「カイ:~と~」で繋がれていて、言い尽くせない喜び」と「栄に満ちていること」

・「喜びに」→喜び。名詞、与格。

・「栄光に満ちた」→栄光を与える。動詞。完了形、分詞、中態あるいは受動態、与格。過去になされた出来事、その結果の状態が現在も続いていることを表わしています。

1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

→「あなた方が受けているものは、信仰の最終目標、たましいの救いです。」

 それは、信仰の目的であるたましいの救いを得ているからです。このことは、過去に、イエス・キリストを救い主と信じて永遠の滅びから救われたことを指しているのではありません。この救いは、既に五節に見たように、将来与えられる救いのことで、資産を受け継ぐことですが、彼らは、信仰によって歩んでいるので、その資産を受け続けているからです。たましいは、神の言葉に従って歩む座です。たましいという語を用いているのはそのためです。信仰により御心に従い歩んだ結果、永遠の栄光を受けることです。

・「得ている」→受ける。動詞、現在、分詞、中態。

・「結果」→最終目標。目的。

1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。

 この救いについては、預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。自分が預言したことですが、その正確な意味は、彼ら自身が調べなければ分からないことを含んでいたのです。

1:11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。

 彼らは、キリストの御霊によって預言していました。示されたことは、キリストの苦難とそれに続く栄光です。それが誰のことなのか、どのようなときかについて調べたのです。彼らは、キリストについて強い関心を抱いていました。

1:12 彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

 彼らは、キリストの栄光に与ることに強い関心があったのですが、その預言の内容は、キリストの苦難の後の栄光について、それは、キリストを信じた者たちのことで、この手紙を受けた信者たちのことでした。今日の信者も同じです。その人たちへの奉仕であるとの啓示を受けていたのです。このように記すことで、かつての預言者も与ることができなかったキリストの栄光を受ける者とされている信者の幸いを示したのです。それは、試練を受けている信者にとって強い励ましになります。

 その救いは、天から遣わされた聖霊により福音によって告げ知らされたのです。さらに、御使いもそれをはっきり見たいと願っているものです。その救いを知らせ、救いの尊さを示しました。

 なお、福音は、信者が永遠の栄光を受けることに関する内容です。それは、救いに関することがですが、御使いも見たいと願っていると記されているように、まだ現されてはいないのです。ペテロ書で用いられている「福音」やそこに語られる「救い」という言葉は、イエス・キリストを救い主として信じることで永遠の滅びから救われることだけに関するものではないことは明らかです。

1:13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

 永遠の資産を受け継ぐ救いをいただいているのですから、それを豊かに受けることができるように、心を引き締め、身を慎みます。イエス・キリストが現れるときにそれを恵として受け取ることができます。神様が好意によって備えた祝福です。信仰によって獲得できます。それを、目一杯待ち望むのです。

1:14 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、

 従順な子供は、親の言葉に従います。そのように、神様の言葉に対して従順となり、以前、神の言葉を知らずその御心を知らなかった時のように、欲望に合わせて欲望に従うようなことをしないのです。

・「従う」→欲望に合わせて欲望に従うこと。

・「無知」→知識や理解の欠如。

1:15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

 あなた方を召された方が聖であるように、あなた方自身もまた、振る舞いの全てにおいて(直ちに)聖なるものとされなさい。

・「生活のすべて」→行動。振る舞い。生き方。

・「されなさい」→動詞。アオリスト、命令形、受動態。相手にある決定的な決断を促す意味を込めた命令です。

1:16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

 聖書にも、聖なる者でなければならないと記されています。それは、主が聖であるからです。主に相応しく聖なるものとなるように命じられています。

1:17 また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。

 父と呼んでいる方は、それぞれの業に従って公平に裁かれる方です。それで、この世に寄留している間、恐れつつ振る舞うのです。それが新しい生き方です。

・「過ごしなさい」→行動する。振る舞う。生き方をする。

1:18 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、

1:19 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 その生き方は、かつての生き方と対比されています。それは、先祖伝来の空しい生き方です。これは、ユダヤ人のことではなく、異邦人のことです。その生き方から贖い出されたのは、キリストの尊い血によりました。これは、信者の生き方が変えられたことを言っています。これは、永遠の滅びから救い出されたことだけを指していっているのではありません。イエス・キリストを信じた時に、義とされましたが、むなしい生き方から贖い出されたのは、その後の歩みのことであるからです。

 むなしい生き方から贖い出したのは、傷もなく汚れもない子羊の尊い血です。傷もなく汚れもない子羊は、キリストの完全な模範です。肉体を持たれましたが、子羊のように従順に神に従われ、神の御子としての栄光を現されたのです。一切の傷もなく汚れもないことを肉体にあって示されたのです。それは、肉にあっても、神の御心を行うことができる根拠を与えました。そして、尊い血です。神が愛によって流された血です。その尊さは、金や銀と比較されています。はるかに価値があるのです。それとともに、対比する対照は、その血の価値の意味を比喩として説明しています。これは、聖書で用いられる手法です。

 銀は、贖いを表します。すなわち、肉にはよらず、御霊によって新しく生まれたものとして歩むことを表しています。それは、いのちです。それが贖い出されたことを表しています。

 金は、義の行いを表しています。義の実を結ぶ歩みです。義の実を結ぶらなば、天に宝を積み、永遠の資産として受け継ぐことができます。これは、永遠のいのちです。

 これらは、朽ちていくこの世のどのような富にも優っているのです。

1:20 キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。

1:21 あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。

 キリストは、この終わりの時に、私たちのために現れてくださいました。ここでは、キリストによって与えられるものについて、キリストのよみがえりを通して与えられる信仰が取り上げられています。それは、神を信じる信仰です。キリストをよみがえらせ、栄光を与えた神を信仰によって信じています。神が死者をよみがえらせることができる方であると信じたのです。それゆえに、義とされました。それだけでなく、神は、その全能の力でキリストをよみがえらせ、栄光を与えられました。信じる者にも同様に、よみがえらされます。すなわち、肉に死に新しく生まれたものとしてくださいます。そして、栄光を与えてくださるのです。そのような神をキリストによって信じているのです。私たちの信仰は、神にかかっています。神がそれを実現してくださるのです。そして、永遠の栄光を受けるようにしてくださる望みも神にかかっているのです。神は、それを実現することができる方です。キリストをよみがえらせてそれを証明されました。

1:22 あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。

 兄弟を清い心で互いに(直ちに、自ら)熱く愛し合うように命じました。偽りのない兄弟愛を抱くようになった者として、熱く愛し合うのです。その兄弟愛は、真理に従うことでたましいを清められたことによります。たましいは、神の言葉に従う座です。真理によって神の教えに適う歩みに変えられたのです。ですから、肉的なものが一切入らない兄弟愛を抱く者とされたのです。

1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。

 たましいを清めたのは、真理であり、それは、神の言葉です。たましいが清められたのは、新しく生まれたからです。肉に死に、御霊によって生かされたからです。それを実現したのは、御言葉によります。その御言葉は、種に例えられていて、それは、朽ちないのです。また、生きています。いつまでも残るのです。神の言葉です。

 朽ちない種であることは、その言葉が廃れないことを表しています。

1:24 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

1:25 しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。

 そのことが、御言葉を引用して説明されています。人の栄えと対比されていて、人の栄えは、草のように価値がなく、花のようにじきに廃れます。しかし、主の言葉は、永遠に立つのです。このような言葉が福音として宣べ伝えられ、人を新しく生まれさせ、その神の言葉に従うことでたましいを清め偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです。御言葉は、生きていて、人を変える力があります。永遠に変わることがないのです。